4日目 ティファマ織りの工房、ザビード、モカ訪問後タイズへ
7時からホテルのレストランで朝食をとる。ユーラシア旅行社のグループと一緒になったが、メンバーが14人で8人の我々より賑やかだ。
レストラン
8時にホテルを出発、今日も快晴だ。最初に魚市場を訪れる。市場は漁港に接していてイエメンの国旗をつけた漁船が停泊している。対岸はアフリカのエリトリアだが200km離れているので霞んでいて見えない。
漁船
近海で獲った魚を籠に入れて水揚げしている漁師の姿も見える。
魚を水揚げする漁師 近海魚
市場は大勢の男でごったがえししている。この地方は蒸し暑いので男たちはフータと呼ばれる巻きスカートを巻いている。ジャンビーヤを着けている男はほとんどいない。
魚市場 漁師
最初にサメ市場を訪れる。体長3m近い大型のサメから1mに満たない小型のサメまでたくさんのサメが床に転がっている。シュモクザメやエイの仲間も見られる。取り引きが成立するとひれを切りとる。肉はイエメン人が食べひれは中国、フランス、インドネシアに輸出される。
サメ市場 ひれを切る男
シュモクザメ エイの仲間
別の建物は一般の魚でマグロやカツオなど日本でも見られる魚も並んでいる。
魚
アフリカに近いのでアフリカ系の男が木の枝を売っていた。この枝を噛み砕いてハブラシ代わりにするのだ。ホブスを置く茎を編んだ大きな浅い籠を売っている男がバスの横で待っていた治部さんに売りにきた。冶部さんがおつきあいに小さい方を買ったら200リアル(110円)だったが何に使ったらよいか困っていた。
エルニーナそれは大西洋です
小枝を売る男 籠を売りつける男
40分ほどして魚市場を出発、紅海沿いに南下する。このあたりはティハマ平原と呼ばれるイエメンの穀倉地帯で、ティハマは暑い所という意味でイエメンで最も暑い地域である。アフリカから移動してきた人が多く丸い草ぶき屋根の民家が見られる。
民家
10時ころベイト・アル・ファキーフに到着した。ベイト・アル・ファキーフは「賢者の町」という意味で13世紀にこの町に住んでいたワディ・サビット出身のアフメッド・ピン・オジェイルは各地を旅して物知りだったので賢者と呼ばれ町の名の起源になった。モカ・コーヒーの交易の中心地として発展したがコーヒー貿易が衰退するとティハマ地方の手工芸品の交易の中心になった。毎週金曜日に市場が開かれ大勢の人が集まるが今日は市場が開かれないのでティハマ織りの工房を訪れることにした。
訪れたときは上半身裸の老人が2人がかりで機を織っていたが我々を見るとすぐ機織りを止めて商売にとりかかった。
ティハマ織りの機織り機 老職人(拡大)
ティハマ織りはハドラマウト地方から伝わったもので、ハドラマウトはインドネシア、マレーシアとつながりが深いのでアジア的なデザインになっている。織るのに2人がかりで2,3カ月かかるといい値段は約1.1mX1.5mの布が30ドルだった。記念に1枚買うことにし値下げの交渉をしてもらったが全然まけてくれなかった。
ティハマ織りの布(拡大)
30分ほどして出発、15分ほど走ってアル・フセイニアの町に差し掛かると駱駝が臼で胡麻の実を擂っていた。胡麻の油をとっているのだという。
胡麻を擂る駱駝
さらに10分ほど走り11時にザビードに到着した。かってザビードは南部アラビヤの学問の中心地で代数幾何学発祥の地と言われ、819年にアラブ最初の大学が設立された。13〜15世紀には200以上のメドレセ(神学校)やモスクがあり海外から5000人以上の留学生が学びに来ていたが今残っているモスクは86である。1993年に世界遺産に登録されたが住宅のコンクリート化が進み2000年に危機遺産になってしまった。
町の広場に面して15世紀にナスル・アハマドによって建てられたナスル宮殿があり、その左手にはイスカンダル・モスクが建っている。
ナスル宮殿(拡大) イスカンダル・モスク
何が熱雷を引き起こす
ナスル宮殿の右側にはシタデルの城壁が続いている。
シタデルの城壁
広場の対面に小学校がありちょうど下校時間で小学生が次々出てくる。女の子はもう頭巾で髪の毛を隠していて高学年の子の中にはアバヤを着ている子もいる。
小学校 女児
旧市街の通りに入ると古い民家が並んでいた。
旧市街の通り
これらの建物はムラバスと呼ばれる平屋建ての家が多く、古い家は300年くらい経っている。家の正面には小さなレンガを積み重ねて造ったザビード様式と呼ばれる装飾が施されている。イスラエルの建国前にはこの町にユダヤ人が大勢住んでいたのでダビデの星も見られる。
ザビード様式の壁(拡大) ダビデの星
アル・アッシャイル・モスクがあったので礼拝堂の入り口から中を見せてもらう。このモスクは819年にイスラム圏で最初にできた大学があった場所に建てられていて、イスラム以前は土着神の神殿があった。内部は質素で天井などは崩れかけそうだ。モスクの中は居心地が良いので祈りの時間以外は寝そべって休んでいる男たちがいる。
アル・アッシャイル・モスク
このあとスークを歩く。バナナなどの果物と一緒に紫色の実が売られていた。イエメンでよく見るウチワサボテンの実だ。
果物を売る老人 サボテンの実
1軒の店の中にコーリャンの束が置いてあった。まだ種が実ってないが駱駝の餌にするのだという。
コーリャン
大通りに面して立派な家があった。300年前のオスマン・トルコの支配時代に建てられた貴族の家で今はイエメン人のナッハリールさんが住んでいる。
元貴族の家
蹴上げの高い階段を登って屋上に出たが周囲の家と同じ高さなのであまり眺めは良くない。屋上で羊を飼っていた。この地方の羊は耳が小さく一見耳がないように見える。
屋上の眺め 羊
なぜブルームーンは発生しません
屋上にマフラージの建物があった。前面の壁にはザビード様式の精巧な彫刻が施されている。マフラージの天井や扉も精細な装飾が施されているが手入れをしてないのでかなり傷んでいる。部屋の中にセリールと呼ばれる高い長いすが置かれていた。暑さを少しでも和らげようと椅子の足が非常に長い。幅があるのでベッド代わりにも使われている。この椅子に腰掛けてミントティーをいたがく。砂糖を融けるだけ融かしたように甘かった。
応接室入口(拡大) 天井の装飾(拡大)
テーブルの上に彩色された小さな容器が並んでいた。乳香の香炉で乳香に火をつけると白い煙が出て良い香りがした。
乳香の香炉
このあとザビド・ツーリスト・レスト・ハウスで昼食をとる。建物は夏の暑さを防ぐため風通しの良い造りになっている。
ザビド・ツーリスト・レスト・ハウス
料理は野菜主体の典型的なイエメン料理だった。
料理
13時15分にザビードを出発、1時間半ほど走ってアルマファクで右折し西に向かって30分ほど走ると紅海の海岸にあるモカの町に出た。モカ・マタリはモカの港から出荷されたバニー・マラル産のコーヒーという意味で1,500年代から1,600年代にかけての最盛期にはヨーロッパの各地からの買い付けの商人で賑わっていたが土砂が堆積して港が使えなくなり寂れてしまった。エチオピアのコーヒーはモカから出荷されたので生産地の名をとってモカ・ハラーと呼ばれている。
海岸沿いに廃墟になったコーヒー商館の建物や倉庫が並んでいる。建物の壁にはコーヒーを表す3つの丸い穴がついている。
コーヒー商館の廃墟 倉庫の跡
上部が崩れたミナレットの址があった。以前ここにモスクがあったという。近くにエメラルド色のドームのあるモスクがあった。アッシャズリー・モスクで15世紀にモカの守護聖人と崇められたアッシャズリーの名にちなんでいる。
ミナレットの址 アッシャズリー・モスク
海岸に海鳥がたくさんいた。風が非常に強く砂粒が顔に当たって痛いくらいだが海鳥は平気で餌を探している。鳥にカメラを向けているうちにカメラが埃だらけになってしまった。女性が着ている黒いアバヤは単に身体の線を隠すだけでなく沙漠地帯の強い日差しや砂嵐を防ぐ実用衣であることがわかる。
海鳥
16時にモカを出発、来た道をアルマファクまで引き返し茶店で休憩をとる。紅茶を飲んだら砂糖水のように甘かった。イスラム圏ではアルコールがご法度なのでやたらと甘い食べ物や飲み物が多い。
茶店
子供たちが写真を撮れと集まってきた。皆髪の毛が縮れていてアフリカ系の子だ。
少年
17時アルマファクを出発、東に向って内陸部を走り18時10分タイズに到着した。タイズはサナア、アデンに次ぐイエメン第3の都市で人口は約46万人、1918年から1962年までイエメン王国の首都であった。標高約1400mの高原にあり1年中春のような気候で過ごしやすいと言われている。大勢の人で賑わう市内を通り抜け30分ほど走りタイズ空港の近くのアル・ドマレ山の頂上にあるソフィテル・タイズ・ホテルにチェックインする。吹き抜けのロビーのある5星ホテルで客室からの眺めが素晴らしい。
ソフィテル・タイズ・ホテル ロビー
客室
19時半からソフィテル・タイズ・ホテルのレストランでブッフェ式の夕食をとる。ほかの客はもっと遅い時間に来るのか料理にカバーがかかっていた。
ブッフェ
料理はたいしたことはないが甘味の強い葡萄ジュースとどろっとして濃厚な味のマンゴージュースがおいしかった。
マンゴジュースと葡萄ジュース
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